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snowmanの日々の呟き

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snowmanさん (7j5166em)2021/8/29 20:25 (No.266334)削除
「見て~ボクの尻尾真っ赤だよ」という中を・・・

玄関の「猫」が悲鳴を上げています。うーむ、この痛いような暑さはなんだ!? 玄関に掛けている温湿度計を見たら、何と40度。こりゃ暑いわ…。
そんな中、粉モンのソースの香りに誘われて昼飯を食べに出かけました。高速を使うこともないんで…タラタラと下道を走り、加西市まで。途中、長年住んでいた加東市を通り過ぎましたが…変わりましたねぇ、ここも。あった店が無くなり、無かったところに新しい店。それに空地と見たら、至る所が太陽光発電のパネル。近未来を描いた映画には、至る所に風車が立っていたのに…。風車、回らないし、回ると倒れる。ダメらしいですよ…。
粉モンと言っても、ここは関西。まぁ、仕方ないですね…。しかし、食べ終わってモールに行ったら、何と入口のところの催し場で「広島焼き」を売っていました。(爆) 暑さにやられて、帰って来てから先ほどまで討ち死にしていました。とにかく暑い、鬼のような暑さです。
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snowmanさん (7j5166em)2021/8/28 21:14 (No.265333)削除
一輪の花の幻・・・

原民喜の詩碑である。現在は、懐かしい和尚さんの寺の前に佇んでいる。
少なくとも西蓮寺さんに通っていた頃にはなかった。僅かに記憶があるのは、広島城址の石垣の前…。石当ての標的にされ、それこそ傷だらけの状態だったのをうっすらと記憶している。その後、原爆ドームの横に移設され、さらに移動した。最後の移動の際に黒御影石になっというが、昭和42年の移設等々辺りからは広島にいなかったこともあり、殆ど記憶にもない。久々に西蓮寺さんを訪れたときに、「おっっっ」という感じで移設に気付いた。
「遠き日の石に刻み 砂に影おち 崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻」…足をとどめて読めば、立ち去りがたい印象的な詩である。それに…原民喜は附属の先輩でもある。

原 民喜(はら たみき、1905年(明治38年)11月15日 - 1951年(昭和26年)3月13日)は、日本の詩人、小説家。広島で被爆した体験を、詩「原爆小景」や小説「夏の花」等の作品に残した。1905年11月15日、広島県広島市幟町(のぼりちょう)(現中区幟町)に生まれる。陸海軍・官庁用達の縫製業を営む父・原信吉の五男。1917年、11歳で父を亡くし、この頃から無口で内向的な性格となる。同じ年に兄・守夫と原稿綴じの家庭内同人誌『ポギー』を発刊して詩作を始める。これは後に他の兄妹も参加して、詩名を『せれなで』『沈丁花』『霹靂(へきれき)』と変えながら、断続的に約12年間続いた。1918年、死の床にあった姉ツルから聖書の話を聞き、「生まれ変わるような衝撃」を受ける。ツルの死後、形見として『聖書』を譲り受け、最晩年までツルを慕った。1923年広島高等師範学校付属中学(現:広島大学附属高等学校)4年を修了。大学予科の受験資格が与えられたために1年間登校せず、ロシア文学を愛読し、宇野浩二に傾倒。室生犀星、ヴェルレーヌの詩を耽読。同級生の熊平武二の誘いで同人雑誌『少年詩人』に参加する。1924年、慶應義塾大学文学部予科に進学。
1950年1月、武蔵野市吉祥寺に転居。4月、広島で行われた日本ペンクラブ大会に参加、登壇者の一人として「原爆体験以後」と題した講演を行う。同月、父の遺産の株券を売却。6月、朝鮮戦争勃発。12月、長光太宛て書簡で詩「家なき子のクリスマス」と詩「碑銘」を送る。1951年3月13日、久我山の鈴木重雄の家を訪ね酒をくみかわしたのち、午後11時31分に国鉄中央線の吉祥寺駅 - 西荻窪駅間の線路に身を横たえ鉄道自殺する。

つくづく…見るからに華奢な人だと思う。繊細過ぎて、傷付き過ぎた人なのだろう。身の回りの品を整理し、下宿の机には親族や佐々木基一、遠藤周作、丸岡明、鈴木重雄、庄司総一、山本健吉、藤島宇内、佐藤春夫、梶山季之などにあてた17通の遺書があったという。45歳、英才ゆえの生き急いだ生涯であった。
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snowmanさん (7j5166em)2021/8/28 16:47 (No.265202)削除
焼けあとに夾竹桃が立つてゐし  竹内弘子・・・


8月の日差しは、なぜか痛々しい・・・
あちこちを渡り歩いているが、結局は広島の人間である。元々の生まれは千葉だし、それ以降、転々と移動もしている。そのくせ、育った地である広島に対する愛着は深い。未だに端々に出る「広島弁」に、「抜けきらぬ広島人よなぁ」と苦笑している。
8月…今年のような秋雨もどきが襲来したことで忘れがちだが、蒼天の広島は夏の日に晒され灼熱の地となる。そんな季節、高笑いしているかのような空とは違い、広島は悲しみの中にある。
そのヒロシマの夏風景を彩っていたのが夾竹桃であり、百日紅である。紅白さまざまに咲くが、自分の記憶にあるのは…いつも赤い花。蒼天に赤の花…これ以上ない対比の中にありながら、なぜか広島の8月は痛々しい。
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snowmanさん (7j5166em)2021/8/27 22:16 (No.264713)削除
限りなく咲く朝顔・・・

特に江戸風情が元気である。小さめの花なので、1輪として見た場合にはさして見ごたえがあるわけではない。山のように咲いていると壮観。「それならば~」と天邪鬼、「小振りな花をどう撮るか」と考え始めた。とりあえず普通にと始めたのが画像①…確かに普通ですな。(爆) ならばの遠近法でボカシを加えたのが画像②…結構こういうのは好んで写している。数を減らして、遂には1輪としたのが画像③…場所的に電線が入ってしまうのが、興ざめとなるのだがね。電線!?…それならばと開き直ったのが画像④。さてさて、どれがあの子たちをよりよく写しているのでしょうかね。書作品と一緒で、どうしても「好み」が表出して、同じような写し方になるのが悲しいところ。いろんな技を交ぜながら、画像⑤のようなのがコンスタントに撮れれば嬉しいんだけれどね。
画像①
画像②
画像③
画像④
画像⑤
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snowmanさん (7j5166em)2021/8/27 22:02 (No.264681)削除
いかん、頭痛が湧いている・・・

玄関の「猫」が苦しそうにつぶやいた…「カビが生えそうな湿気ぇ~」 どんどんと学習を深めて行って、豊かな表現で楽しませてくれる。
朝から湿度80%、気温30度なのだから、悲鳴も上げたくなる。連日、「明日はもっと…」と言い続ける気象予報士が鬼のように思える。
そんな中、ジュラシックパークに生えるような雑草退治に乗り出した。花は咲かせてやってもいいが、結実は避けたい。ネズミ算なんてレベルでなく、手が付けられない状態になる。しかし…この辺りでもマダニの被害が囁かれる。忌避剤を撒いて、重武装で取り掛かったが…アウト。この重武装では、とても1時間など持たない…。悔しいから、空いた鉢の土に石灰を交ぜて再生するという作業に取り掛かった。これなら座り込んで作業ができる。おもしろいのは、座り込んで姿が見えないので、通りがかりの人があれこれと花を見ては批評を漏らしていくこと。(聞き耳頭巾) 「こりゃ、完全に観察され尽くしているわ」…話し掛けられたときの話題が広いわけだ。土を駐車場の片隅に広げて、日光に当てることとした。この段階で完全にギブアップ…。「ほぼ熱中症」でへたばった。頭が痛いし、筋肉痛…。
昼間の月
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snowmanさん (7j5166em)2021/8/26 20:50 (No.263809)削除
こうなるのが嫌なんだなぁ・・・

前の荒れ地にタカサゴユリが咲き始めたと言ったでしょう? きっと来年は凄いことになると思うんですが、その「完成形」の様を写してきました。(笑)
坂を下って小学校の前を右折して本道に出るんですが、その右折したところに空地があります。フェンスが残ってるから、きっと工場か作業所があったんだろうと推測しています。そこにいつからかタカサゴユリが咲き始めた…背景として見える電線(架線)はJRの福知山線です。
「よいしょ!」と車を停めて、写し撮りました。
こんな感じになるのは…御免被りたい。丹波篠山に玉水ゆり園というのがあって、それこそ百合だらけなんですが彩りにアクセントがある。これはねぇ…ただただ咲いているだけ。高速道の斜面じゃないんだから、こういうゆり園になるのはお断りなんですけれどね。
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snowmanさん (7j5166em)2021/8/26 19:56 (No.263774)削除
犯行現場~現行犯・・・

出掛けようとしたら、ウチの子がじっと見つめている。「なん!?」と聞いたら、「ナァ~」と鳴いて、タワーの板に首を擦りつける。これは…「グリングリンをしてくれぇ~」というポーズ。しかし、既に出掛ける用意を終えているから、「帰ってからな!」と振り切った。恨めしそうな眼差し…。
帰って来てタワーから見つめているウチの子と、目が合った。「お前サマ、『帰ってからな』というお言葉を、覚えておられますのぇ~」 はいはい、覚えていますよ、覚えていますとも。しばしのお相手で、御機嫌はなおったみたい。これがねぇ、ご機嫌斜めのときには「おぅりゃあ」という感じで、猫パンチの嵐。あまりに動きがスピーディなんで、なかなか証拠写真が撮れませんでしたが…今日は見事に証拠写真。顔つきまで、何とも言えず闘争的。(笑)
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snowmanさん (7j5166em)2021/8/25 21:53 (No.263022)削除
絵本作家ということで・・・

「教科書掲載」という作品の威力を感じる。(笑) まして新美南吉の「手袋を買いに」と「ごんぎつね」だ。一つ年上だけれど、名簿で確認したら卒業年度は一緒。一度だけだけれど、神戸でのトークショー(?)を聞きに行った。

黒井 健(くろい けん、1947年 - )は、日本の絵本作家、イラストレーター。新潟県新潟市生まれ。神奈川県川崎市在住。新潟大学教育学部中等美術科卒業。日本児童出版美術家連盟会員。学習研究社幼児絵本編集部を経て、フリーに。2003年5月、「黒井健絵本ハウス」開館。2010年9月、新潟市立中央図書館こどもとしょかん名誉館長に就任。

大学時代の記憶は全くない。あの高田の住人だったはずなのに、記憶がないのだよね…。どんな夢の中で生きた人なのだろう。
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snowmanさん (7j5166em)2021/8/25 21:43 (No.263019)削除
絵本がやって来た・・・

「こんな猫を描く人はきっと…」と思ってAmazonで注文した絵本がやって来た。Amazonでの注文は早いが、欠点は手にとって「確かめ」ができないこと。それと、「中古」の本の場合の粗密が多いこと…。まぁ、こんな絵本の場合、わざわざ中古を買う必要もないので、当然のこととして新本の注文。著者の「岡田淳」サンについて、何も知らなかったので後付けとなるが…。

岡田 淳(おかだじゅん)
1947年兵庫県に生まれる。神戸大学教育学部美術科を卒業後、38年間小学校の図工教師をつとめる。 1979年『ムンジャクンジュは毛虫じゃない』で作家デビュー。その後、『放課後の時間割』(1981年日本児童文学者協会新人賞)『雨やどりはすべり台の下で』(1984年産経児童出版文化賞)『学校ウサギをつかまえろ』(1987年日本児童文学者協会賞)『扉のむこうの物語』(1988年赤い鳥文学賞)『星モグラサンジの伝説』(1991年産経児童出版文化賞推薦)『こそあどの森の物語』(1~3の3作品で1995年野間児童文芸賞、1998年国際アンデルセン賞オナーリスト選定)『願いのかなうまがり角』(2013年産経児童出版文化賞フジテレビ賞)など数多くの受賞作を生みだしている。 他に『ようこそ、おまけの時間に』『二分間の冒険』『びりっかすの神さま』『選ばなかった冒険』『竜退治の騎士になる方法』『カメレオンのレオン』『魔女のシュークリーム』、絵本『ネコとクラリネットふき』『ヤマダさんの庭』、マンガ集『プロフェッサーPの研究室』『人類やりなおし装置』、エッセイ集『図工準備室の窓から』などがある。

期待通りのほのぼのさ満載の絵本だった。
へぇ~、兵庫県の人、それも小学校の図工の先生かぁ。一つ年上…優しそうな人だな。ふと、芸能科美術のユニークな面々を思い出した。以前、角野栄子さんと「とある仕事」をご一緒したことがあるが、やはり独特の世界を持った方だった。書に関わって来た自分は、「自己表現」ということを考え続けていたように思うが、何か違うなぁと少し自虐的な気持ちになる。
「まぁ、気にしなさんな…」とでも言うように、ちょっと欠けた明るい月が久し振りに昇って来た。
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snowmanさん (7j5166em)2021/8/24 22:13 (No.262260)削除
思わず毀れる~演技が下手だよね・・・

「〔パラリンピック〕国際パラリンピック委員会(IPC)のパーソンズ会長(手前左)と会談を終えた小池百合子東京都知事(同右)」だそうですよ…本性丸出し。あの愁いに満ちた演技が破綻して、とっても嬉しそうな態度で満面の笑みじゃないですか。
聞いてびっくりしたのが、オリパラに従事している医療関係者って7000人ですって!!! その対岸で、自宅療養の末に亡くなっていく国民…己の自己顕示欲を充足させるために、国民を捨てたという感じ。さらに、「このままじゃあ終わらせないぜ」って、子どもたちを団体で引きずり出そうとしている。「無観客のままに終わらせてなろうか」という怨念・執念ですね。今日は組織委員会のスポークスパーソン高谷正哲が、「質問の意図がまったく理解できない」と開き直ってそうな…オリンピックマフィアの落とし子が続々と登場です。この連中、明らかに病んでいます…。

前日23日に組織委はIPCのパーソンズ会長など関係者約40人を招いた橋本聖子会長主催の歓迎の夕べを開催。感染状況が悪化の一途を辿る中での開催に批判の声も上がっている。「なぜ中止しなかったのか?」と問われた高谷SPは「ご案内のとおり、何か飲食を伴ったパーティーとはまったく性格が違うものであり、ホストとしてお越し頂いたIPCのゲストの皆さんに対して歓迎の意を示す主旨のものです。会の中では音楽をお聴き頂くセクションもありました。あくまでできるだけ簡素な形で、しかしながらホストとして皆さんに歓迎の意を示させていただいたものです」と、説明。重ねて「社会へのメッセージとして適切なのか?」との問いには「質問の意図がまったく理解できない」とし「この大変な状況の中でお越し頂いたIPCの皆さんに対してできる限り簡素な形で歓迎の気持ちをお示しさせていただいきたいと。それぞれのパートナー、トップが直接ご挨拶させて頂く場を設けるというのは今の社会の慣習においては、適切な対応の範囲内」と反論した。(デイリースポーツ)
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